ちょいちょい言うけど「共感」による笑いは苦手で。
げんこつ団では「手段」としてはやるけど、基本、やらない。

それは、
「無意識的にであっても安易に共感を産むことによって、
 何らかの立場に立つことをしない」
という、主義によるものでもあるけれど。

それ以上にただ単純に、「苦手」だ。

「あるある!」「分かる分かる!」「やっぱりそうだよね!」
うん。気持ちが悪い。

そこはとても、狭いんだ。
「わーーーー!」と叫んで逃げ出したくなるほど狭いんだ。

例えば◎◎系◎◎とか。 古くは、ちょい悪オヤジだのオヤジギャルだの、
まず「定型」化して、その定型から外れたものをまた「定型」化する。

ぐるぐる巻きか!どこに逃げても拘束衣と目隠し猿ぐつわでがんじがらめか。

或いは「あれ」に反対の意を述べれば「じゃあこれにもそれにも反対ね」、
「それ」に賛成の意を述べれば「じゃあこれにもあれにも賛成ね」。

違う!やめてくれ、私をその箱に入れるな、その箱は誰の箱だ、ぶち壊すぞ。

20年前から、いや30年前から40年前から50年前から100年前から、
そのすべての狭さに、反対だ。世界中の全ての狭さに、反対だ。

昔に比べて、今はやや、
狭苦しさを感じずに過ごすことが出来るようになってはいるが、
しかしまだまだ、まだまだ、狭いんだ。
しかしそれを言い始めたら本当にもう、どこまでもどこまでも、
ちょっとよくわからないところまで行ってしまうので、
それはそれで置いといて。

例えば、「普通」から少しズレたものを笑うという笑い。
それが「普通」から少しズレた「状況や展開」ならまだいいが、
「普通」から少しズレた「人」なのはちょっとどうかと、
誰もが思うと思うがどうか。

或いは、「状況や展開」をネタにしているとしても、
その「普通」としているものを「普通」と受け入れられない人にはどうか。
もしくは何を、「ズレ」と思うか感じるか。
それを何故、「ズレ」と思うのか感じるのか。

そこに「一切の疑問」のないままの、「天真爛漫」な「共感による笑い」。
それは、害悪だ。

しかしそれははびこる。
日常の中、あっちこっちに、はびこっている。
いいわるいは置いといて。
いや置いとくべきものじゃないけどとりあえずは置いといて。
とにかく、苦手なもんは苦手だ。
今は「苦手だ」とだけ、言いたい。

ちょっとしたズレを笑う、微笑ましいギャグ、ネタ、話術。
ちょっとだけズラした感性による、お洒落感、時代先取り感。
ちょっとしたズレを見つける、鋭い感性、磨かれた感性。
ちょっとズレたことに気づいたオレ、恰好いい感。
ひとと違うことに気づいたオレ、恰好いい感。

80年代後半から90年代前半はそういうものに溢れてたように思うがどうか。
なんにも調べてないし今テキトーに言ってるからぜんぜん間違ってるかもしんない。
いやいや昔も今も何も変わっていない。今も溢れているぞ。ここそこあそこにみっちり。

そんなもんは、ちっとも、面白くない。

と、私は思う。

思うんだ。

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