こないだテレビを眺めていたら、"ご当地キャラ"なる着ぐるみ達が沢山出てきた。
そのとき、今ブレークしている例外的なもの達は置いておいて、一切喋らずにフワフワと動いている、いわゆる従来の着ぐるみを見て、思った。

多分、彼等は基本的には子供向けで、或いは大人に向けても無害で可愛らしく愛嬌を感じられるように、デザインされたキャラクターだ。
それに動きを付ける時、大抵は、こうなる。膝を内側に向け両膝を寄せて、踵を上げる。肘を外側に向け両肘を寄せて、手首を反らしてグーパーグーパー。
これが、大抵の日本人にとって無害で可愛らしく愛嬌を感じられる仕草、と、認識されているという事だろう。寄って集って膝を寄せて肘を寄せて、彼等は愛嬌を振りまいていた。

顔かたちは、分かる。本能的に赤ちゃんに対して感じる可愛らしさ。顔のつくり、目鼻口の比率、頭と身体と手足の比率は、やはり大抵、それに則っている。それはもう、世界共通、哺乳類共通のものだろう。
しかし、その仕草は?

人間に限らず哺乳類の赤ちゃんに、膝や肘を寄せるという特徴はないように思う。つうかどっちかってえとガニマタだ。いや子馬や子羊なんかはウチマタか。そうでもないか。
しかるにその可愛さは、赤ちゃん由来のものではない。ではそれはいったい何なのか。

言わずもがな。あれは弱さのアピールだ。
回りくどく書く必要はなかった。誰が見てもそう。内股ではいきなり蹴ってくるような事は出来ない。内肘ではいきなり殴ってくるような事は出来ない。どっちも力が入らない。
警戒しないで下さい、私達は無害です、非力で弱い存在です。彼等は一生懸命に、そのようなアピールをしている。

それは赤ちゃん由来ではないなら、何由来か。それは、女性由来だ。
回りくどく書く必要はなかった。誰が見てもそう。かよわい女。その特徴を、単純に図式化したクネクネした動き。彼等はみんな、赤ちゃんであり、かよわい女だ。無害中の無害。カワイイの最強合体形。

その動きはデフォルメされ形式化されたものだ。周りにそんな動きをする女性は居ないし、時代を遡ったとしても、そこまで不自然な動きをする女性はなかなか居なさそうな気がする。
またそれは、日本でしか見られないデフォルメと形式にも思える。海外の色々な国のアニメやキャラクターの動きに、それはなかなか出て来ない。しかし日本ではアニメの可愛い女の子なんかは、ときに間接がおかしくなっちゃってるんじゃないかと思うくらい、膝を寄せて立ち、肘を寄せては手首を捻る。動脈の走る大事な手首の内側を、これでもかと見せつけてくる。

その執拗なほどの「かよわさアピール」が日本人には嬉しいのか、或いは、嬉しいと感じてもらえる、と、思うものなのか。まあ、そうなんだろうなと、思う。
男性、或いは女性の中の男性性が、女性的なかよわさを受けて満たされる、自尊心や優越感。或いは掻き立てられる保護欲、もしくは嗜虐欲。そういうものが、特に想像しようとしなくても、自然に理解できる。
ただそれ自体は、日本人特有のものじゃないとも思う。人間ならば、もともとあるものと思う。では何故、キャラクターやアニメ等の過剰なかよわさアピールは、他の地の文化ではなかなか見られないのか。

日本人はよく謝るという。謝罪の気持ちがなくても、とりあえず謝ることで、人間関係が潤滑にいく。「すみません」の文化。自分を下に見せること、互いに自分は下ですよとアピールすること、それが、「かよわさアピール」のデフォルメや形式を、過剰なものにしているんじゃないかと思う。
自分は暴力的ではありません、無害です、弱い存在です、と、過剰にアピールしながら、本当にことごとく弱く、なんにも出来ないキャラクターは、なかなかいない。むしろ強かったりする。

「すみません」の文化。それ自体は悪い事ではないと思う。表面的儀礼的に互いの平和を保つにも、それは高度な関係性の築き方であるようにも思うし、互いに譲り合う精神とそれは、深いところでは結びついていると思う。
日本はそうした独自の国民性から、他の文化にはない世界に誇れるクネクネを、生み出している。日本のアニメやキャラクターにはなくてはならない、クネった動き。それは誇れる文化だ。クールジャパンだ。

しかしながら、そのデフォルメによってやっと満たされるような、自尊心や優越感。或いは掻き立てられる保護欲、もしくは嗜虐欲。それ自体は、とんでもなく幼稚だ。低姿勢で「すみません」と言われて、「その通りだ、自分はあんたより上だ」と、即座にふんぞり返る馬鹿と同じだ。
日本人に限らず人間ならもともとそうなる素質がある。いや、もともとそうであると言えるかもしれない。それらの欲は、皆、満たしたい。ただ、それはそう簡単には満たされないはずのものであり、自制しなければいけないものでもある。人間としての成長に大きく関わってくる、"欲"である。
例えば、女のかよわさが過剰にデフォルメされたアニメのキャラクターに対してそれらの感覚を抱くのは、人として一つも成長していない事の証と言えるかもしれない。デフォルメされたキャラクターの中にあるデフォルメされた特徴は、もはや現実的なものではない。あくまでも象徴だ。だからこそ、許される。

さて、ご当地キャラクター。
彼等は無害な顔に無害な動きで、我々は「女子供」です、人畜無害です、と、言っている。そこに私は、違和感を感じたのだ。それで、上のようなことを、書いたんだ。そうだった。
しかしその無害さアピールは、物凄く漠然としている。とりあえずの方法でしかないように思える。とりあえずこうしておけば大丈夫だろう。まあ、そんなところなんだろう。その辺のゆるいコンセプトが、"ゆるキャラ"たる由縁だろう。だからそれで、いいんだろう。

私は大分昔、着ぐるみのバイトをしていた。その時、そうした「型通り」の動きをするのがイヤで、「自分なりに」そのキャラなりの動きを、していた。いや別に心の底からイヤだったわけではなく、単にその方が面白いから。
それでも受けは良かった。いや、その方が断然、受けは良かった。「型通り」は、警戒されはしないが、面白くない。いや、面白さは要らないんだろう。いや、それでいいのか。

そんな、漠然と「型通り」だったご当地キャラクターの世界にも色々と「型破り」が出てきて、今、それが世間に受けている。
「愛されたいなら、かよわくあれ。」その法則は、時間をかけて色々なところで、徐々に覆されている。それは、喜ばしいことと思う。形式美としてのデフィルメは残るかもしれないが、それはあくまでも形式だ。
へりくだるのは、悪いことじゃない。むしろ世界に広く、へりくだりの精神を伝えたいと思うほどだ。女子供だけにそれをさせるな、男もどんどんへりくだれと思う。へりくだった上で、強くあればいいと思う。

ただ、かよわくないと愛せないのは、未熟すぎる。多分、日本においてそれは根強い。日本人は繊細だからかもしれない。物凄く乱暴に言えば、男も女も女性的な部分が多く弱いので、更に弱いものが欲しくなるんだろう。
そんな未成熟な部分は、徐々に成熟すればいいと思う。それは、日本なりのやり方で、いいと思う。
弱者の、権利、自立、平等。弱者の、定義。日本の国民性においては、例えばそうしたものへの感覚を真の意味で深く変えるには、理屈や議論や論争よりも、なんとな〜くの浸透の方が、有効そうな気がしている。

長い間漠然となんとな〜く、かよわいばかりだった"ゆるキャラ"の世界に、たまたまこの時期、かよわくないけど愛せるものが出てきて、それをなんとな〜く共有する。それもまた、なんとな〜くの流れの端っこの方に、ある気がする。
ゆるく流れるその大きな流れの末に、良き未来があるかないかは、やはりその流れを作っている個々人のその時々の、流動的な考えや思いや価値観だと思う。誰にもその責任がある。

また無駄に長くなった。

以上、"こないだテレビみて思ったこと"、でした。