団長日記

都内劇場に暗躍する喜劇団「げんこつ団」団長の日記

2015年05月

苦手

例えば子供が「コドモ」っていう動物の一種で、いつまでも小さく弱いままなんだったら分かるんだけど、実際は単なる「過程」でしかないのだから、子供を子供扱いするのも気が引けるし、自分が子供扱いされるのにも戸惑ったもんだ。

思い出してみれば誰でもそうだったんじゃないか。例えば変な見ぶりと声で「ありゃりゃりゃ!んまー、おーきくなりまちたね〜!」とか言われても。「空気を読んで」子供らしく振る舞うしかないじゃないか。それが出来ない私は下を向くしかなかったじゃないか。空気を読める子は「相手を思いやって」子供らしくしてあげていたじゃないか。その「優しさと気遣い」はもう充分大人のそれじゃないか。

言葉が、ほんの少しでも話せるようになったら、色々な面での知識や経験が足りない以外は大人同様に育ちつつあるもので。しっかりと思い出してみれば、誰でもそうだったと思う。いわゆる「子供らしい」振る舞いも言動も、「分かってやってた」と思う。道端で泣きながら暴れてる子供も充分、「分かって」やってる。親が無視して立ち去ればピタッと泣き止みスタスタ歩いていくもんだ。ズルい事もワルい事もエロい事も色んな事を逐一考え、試行錯誤して行動するのが子供だ。
 
だから「子供扱い」 ってのは、子供扱いをする大人の世界における、「大人と子供の関係性」を、否応無しに押しつけ叩き込む行為で。その人の思う「子供らしさ」を演じざるを得ない、逃げ場のない状況を作り出す行為で。そう思うと益々、その人の思う子供らしい子供でいてあげる「優しさと気遣い」を、敢えて拒絶したくなったもので。

自然とその「優しさと気遣い」を身につけた子供は、自然と子供らしく振る舞う事が出来、それが相手との関係を潤滑にし、結果、それは自分にも心地よいものとなる。
無理をしてその「優しさと気遣い」を演じた子供は、無理に子供らしさを演じ続け、相手との関係は潤滑になるものの、結果、それは苦痛のままだ。
そう、拒絶するより無理をするより、順応しちゃった方が、お得だし楽なのよ。さあ、順応なさい、私も順応してきたのよ、そうしたら楽しいのよ、考える必要なんかないのよ。そう、そういうものなの、そういう世界なの。さあ泣きなさい喚きなさい、子供らしく屈託なく、笑いなさい。

しかし、そんなこと言われても、子供はすぐに成長するもんで。いやすでに中身は、ほぼ同等。子供扱いをした子供は、みるみるうちに貴方を追い越していく。いやすでに中身は、追い抜かれているかもしれない。貴方同様、誰しも同様、子供だって、実のところは何を考えてるか計り知れない。しかも良くも悪くも文字通り、無限の可能性を秘めている。ああこわい。だから私は、子供が苦手だ。子供の頃から子供が苦手だ。つうか子供も大人も苦手だ。みんな苦手だ。

ああだから、「大人」は「子供」を「子供扱い」することで、自分がちゃんと「大人」であることを自らも自覚しようとし、「子供」を「子供」に、しておこうとするのだな。その「抑圧と服従の関係性」が、自らにも必要なのだな。と、ここまで書いて。「いやいや別に違うだろうw」とも思う。実際、違うんだろう。単に子供は可愛い、愛おしい、そういうのがあるんだろう。大人にももっと余裕があるんだろう。そうなんだろう。そうなんだろうよ。

つまり私も大人であるならば、余裕をもって子供を子供扱いすればいいし、その余裕がないならば子供を子供扱いすることで屈服させればいい。子供側にはいろいろあるだろうが、そんなことは知ったものか。みんなそうしてるんだ、そうしろ。それで万事解決だ。

或いは子供をもうちょっと「大人扱い」するような世間だったら楽なのにと、ちょっと思うけど致し方ない。他国他文化じゃそういうところもあるが、今のここはそうじゃないわけだし。いやまず「大人扱い」ってのもおかしな話で。「大人扱い」って何だよって話で。「普通に」接してくれれば良かったし、「普通に」接することが「普通」なら良いのにと、思う。

だって思い出してみたらいい。誰しも子供のころに感じたろう、あの違和感。物心ついて最初に他人の大人が見せた、「子供扱い」。他の大人たちに対するものと明らかに違う、態度、表情、言動。いやいや絶対、感じたと思うよ。でもすぐに、「あっ、こういうもの…了解!」と飲み込みの早い子供は事情を察したんだ。でも私のような飲み込みの遅い子供は、「なにこれ…?」といつまでもその違和感を引きずったんだ。
 
結局のところ、子供の頃に「その事情」を飲み込めず、大人になってもまだ飲み込めない、自分がいけない。いつまで口の中で咀嚼してるんだと。早く飲み込んじまいなと。それか吐き出しちまいなと。つまり子供が苦手で、子供と接するのが苦手なのは、完全なる自業自得。社会のせいでも世間のせいでもなんでもない。なんであってもそうなんだ。きっと私は死ぬまで、飲み込むでもなく吐き出すでもなく「事情」をモグモグ咀嚼し続けるんだ。

なので今後、子供と接しなくてはならない時、その時には、一対一のサシで勝負させてもらいたい。大人だの子供だの一切、抜きにして。……いや、負けるな。絶対に負ける。いやすでに負けてる。白旗。降参。ごめんなさい。
だからやっぱり、子供は苦手だ勘弁だ。
つまり、逃げろ!


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早漏

演劇パロ的ネタをやめてネタの多様さや1つ1つのネタの無駄の無さに盲目的に命を掛けた10年を経て。1つ1つの公演の特色を出そうとした5年を経て。
今、初めて、全体像が勝手に湧いてきてる。まだそんなに考えようとしてないのに勝手に漏れ出してくる。
こわい。
諸々半年休んだ反動かただの錯乱か。
そこにはこれまで避けてたことも含まれるし相容れないと思ってたものも最初から相容れさせてるし前回のあれこれを踏襲しつつ前回ともまた全く違うしでもそれで全く問題ないし。
これが錯覚じゃなければ、なかなかいい感じ。
錯覚か否かを精査しながら、このままいきます。
稽古は7月から。

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役作り粘土派

前にも日記に書いたが、シュヴァンクマイエルの映像が好きで。

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そのシュヴァンクマイエルの映画祭が、
あった事、またやる事を、ふと思い出したついでに、
げんこつ団に関することに、ふと思いが至ったので。
それをメモ的に、書きます。
映画祭にご興味ある方はこちらへ→ http://svank2015.jimdo.com

で。こっから本題。

げんこつ団における「役作り」は、「粘土細工」だなと。

シュヴァンクマイエルの粘土映画を思い出し、そう思いました。

ざっくり言うと、私だって、
げんこつ団以外で、作・演出するときは、
色んな面において、登場人物に似た役者さんを探したり、
その役者さんに似た登場人物を作ったりしたうえで、
それぞれ役作りに臨んでいただくわけで。
なにも無意味に、無理な配役はしないわけです。
そんな無駄なこと、出来るだけしないわけです。
そっからスタートするわけです。

しかしげんこつ団の場合は、特殊です。
女性のみで色んな老若男女を代わる代わる演じ、
それぞれの登場人物は、見た目や声から、役作りをしてもらうわけです。
それはいわば、粘土をコネコネ捏ね上げて、ひとつの形を作っていく、
粘土細工のようなもの。

そうして出来上がる粘土人形、ならぬ粘土人間は、
リアルだけどリアルじゃない、リアルじゃないけどリアルな、
大なり小なりのデフォルメを施した、グロテスクなカリカチュア。

何故なら、げんこつ団における私の脚本は、その状況から展開から全てが、
ハナからデフォルメやカリカチュアの過ぎたものが多いので。
というかここではそういうものがやりたいので。
すると、そこにホンモノのニンゲンが登場すると、
作り込んだ人形劇の舞台セットにうっかりニンゲンが出てきちゃったように、
その世界がぶっ壊れるからです。

これをホンモノのニンゲンでやる場合には、
その世界を何らかの方法で、最初に作らなきゃならず。
設定やら。セットやら照明やら衣装やら名前やら。
それらを意図的に、ちょっとズラさないといけないなあと思うわけです。
いやまったくズラさないままでも、やりようによっちゃ面白そうだ、
と今、ふと思ったけど、基本的にはそうなのです。

で。それを作るのが、なんか嫌で。
というか多分、ヘタクソなので。
それを観せる時間や手間を省いて、もっとダイレクトに。
リアルだけどリアルじゃない、リアルじゃないけどリアルな舞台をやる。
前提や説明なしに、それを次々にぶん投げていきたい。
すると、やっぱり、役者本人は完全に姿を消し、
誰が何を何役演じているのか分からなくなるような、
粘土細工手法の役作りにて、粘土人形ならぬ粘土人間が出てきて欲しい、
となるわけです。

ただ、その粘土人間は、イキイキしていないといけない。
しかし、
おじさんを演じている「女」がイキイキとしている、のと、
女が演じている「おじさん」がイキイキしている、のでは、
180度違う、天と地ほど違う、水と油ほど相容れない、混ぜるな危険。
個人的には前者は死んで欲しい。天敵だ、悪魔だ悪霊だ。
稽古場でもし突如そいつが現れたら、命がけの悪霊払いが始まる。

たとえ「女」の役でもそう。
役者本人がそのまんまの状態でイキイキと舞台に現れたら、ぶち壊しである。
人形劇のセットに、ニンゲンがデカい頭を突っ込んできたのと同じである。
総出でその頭を叩いて追い出して聖水をかけて、悪霊払いである。


さてその、生き生きとして活き活きとした、粘土人間の作り方。
他の粘土人間とのバランスを見ながら、身体と声を駆使して粘土を練っていく。

人形を作るのと違うところは、
わざわざ命を吹き込もうとしなくても、自分の命がそこにあること。
なのに時々、それを練り込み忘れるポカをやらかす者も多いので、常に慎重に。

あらゆる場合の話し方立ち方動き方笑い方怒り方泣き方、考え方思い方、思い出経験、普段の生活。
意図的な場合を除いて、その全部を余すことなく練り込んで、
そのデフォルメとカリカチュアを施していく。

例えば、「おじさん」なんだけど、そこに「乙女」を何パーセントか練り込んだり。
「おばさん」なんだけど、そこに「少年」をちょこっとだけ混ぜ込んだり。
そうすることで、個性豊かな登場人物が練り上がる。
吐く息の匂いさえ漂ってくるような、リアルじゃないけどリアルな、粘土人間。
ほどよくデフォルメされた、グロテスクなカリカチュア。
それをいくらでも、練り上げていける。

まさに、自由自在だ、万能だ。
欲しい登場人物が手に入る。
5人10人の現実的人数など関係ない。
登場人物長者だ、ウハウハだ。

げんこつ団においては、私は色んな場所や状況をやりたい、
出来れば全部の場所や状況をやりたい、全部ってなんだと思うがやりたい。
そのためには、登場人物長者でなくてはならない、左団扇でウハウハでありたい。

そんなわけで、げんこつ団における「役作り」は、「粘土細工」なわけです。

役作りの一つの流派として、「粘土派」を名乗ろうと思います。

そうして目指すのは「シュールリアリズム演劇」なのか何なのか。
そもそもそんな言葉あるのかないのか、そもそもそれは何なんだか。
分からないけど、そんなイメージで、2015年も、やりましょう。


ところで下の写真は、
シュヴァンクマイエルの住むチェコの、人形劇の人形たち。
ちょうどよく歪んで、グロテスク。
グロテスクな舞台に登場すべき、グロテスクな登場人物として、
人間よりイキイキして見えたりもする。

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4次元平和

どうでもいいけど一度ちゃんと言っとくと。

戦争と反民主主義的社会をもたらす可能性のあるものの反対側にあるのは、
やはり、戦争と反民主主義的社会をもたらす可能性のあるものだと思う。
戦争反対を思う人は、現時点の日本にある右にも左にも、寄っちゃ駄目だと思っている。
いわゆる中道を行きながら、現実的に細かく情勢を見ていかねばならないと思っている。

理念としては、戦争反対でいいと思う。
ただそれを政治活動に利用したり利用されたりしてはいけないと思う。
それはあくまでも、国際的民間レベルでこそ、実を結ぶことだと思う。
政治を排除し国を超えて、国民と国民が民間レベルで手を取り合うことが大事と思う。
それだけが、やがて政治に影響力を及ぼす可能性を秘めたものと思う。

物凄く大雑把に言うと、
戦後これまで日本が民主主義国家でいられたのは、
そのうえ平和に経済発展を遂げてこられたのは、
そうあった方が都合の良い国や勢力があって、それでも別に困らない国や勢力があって、
そうじゃない国や勢力の動きを、結果的に抑えてこられたからであって。
そのバランスが変わって来たら、それも変わってしまうもので。

これまでは、戦争反対と言えば、天皇・軍事・右翼に反対、で良かったかもしれないが、
それはあくまでも「概念」。現実的な戦争の脅威のないところで叫ぶべき「概念」。
概念自体は大事ながら、実際のところの物事はそう単純ではなくて。

それについては、諸々の具体的世界情勢を見れば明らかだが、
それを言い始めると、とてもとても長くなるので割愛。
でも、その「とても長くなる事」が重要なわけで。

それ自体は別に、複雑なことでも何でもなく、
何らかの陰謀論みたいなものを持ち出さなくても済む話。
例えばひとつ、現時点の身近な現実を単純に言えば、
世界に対してのアメリカの影響力が薄れているなか、
アジアに対して中国が影響力を強めようとしていること。
自発的意欲的、且つ具体的に強めようとしていること。
何の為にどういった方法でどういった方向に強めようとしているのかということ。
また、その中国は決して民主主義国家ではないこと。

では「アメリカが善で中国が悪か?」とか「その逆か?」とか、そういう話ではなく。
その背景には色んなことがある。どの背景にも色んなことがある。
それを踏まえてどの国に対しても、大も小も外も内も、見ていかなくてはならない。
経済、内政、汚職、原発。格差、人権、ウイグルチベット。
東シナ海、南沙諸島、周辺アジアに、ロシアに日本。
思わずラップを踏んでしまったが、それが一番重要な、「長くなる話」。

また、これまで日本は一党優位状態が続き、
二党三党が敵対または切磋琢磨して良き現実的結果をもたらす議論が育ちにくかった上、
島国の、大まかには単一民族社会にあって、同調性の強い社会にあること。
そのため、世論による緩やかな方向転換や地域密着の現実的草の根活動は別として、
社会運動のシステムが未成熟であり、報道レベルも未成熟であること。
それもまた重要な、「長くなる話」。

それらを踏まえて、何に反対すれば戦争反対に繋がるのかを、
改めて、逐一逐一、検討しなければならない。
要は、プロのジャーナリスト並に、或いはそれ以上に、
あらゆる物事を見ていかなくてはいけないわけで、そりゃもう大変だ。
それで飯を食っているんじゃない限り、それはなかなか難しい。
それで飯を食ってんのかい、ってな九官鳥みたいなジャーナリストも沢山いるけれども。

つまりさっき、「長くなるから割愛」と言ったが、
割愛じゃなく、簡単には言い切れないし、なかなか追いつけない。
でも何とか、追いつこうとしなきゃなんない。

だけど、日本人は皆、忙しい。

例えば戦争に対する「反対!」も、
叫んでみてもあまり意味はないが、言わないべきではないだろう。
でも言ってみたところで、その先に行き先は無い。

それは行き先ではなく、今、私たちの立っている、ここにあるものでしかない。
今のこの、平和であり民主主義である社会は、
偶然と必然に助けられつつ育まれてきた、一つの成果だ。
微妙なバランスのうえに保たれた、一つの奇跡だ。

しかしその平和を脅かしているものがあるならば何かせねばと、焦燥感が足を動かす。
そして、それを守るんだ守るんだと、身近な行進の後に続く。

さてその行進はどこに向かうのか。その先頭は、その行き先を知っているというのか。
たとえもし行き先を知っていると言っても、そこまでの道順はどうなのか。

行き先のあやふやな行進は、行き先の明確な行進の後に続く。
みるみる続く。どんどん増える。海越え山越え、チータカタッタ。
行進を先導する車には燃料が必要。
分かりやすい敵を作り、分かりやすい標的を攻撃しながら突き進む。
先頭がどこに向かっているのかよく見えない。見えないままに、チータカタッタ。

そうしてどこに辿り着くのかというと、やっぱ行き先なんかなくて。
真反対側から同じくチータカタッタと、
真反対側から見た分かりやすい敵を攻撃しながらグルッと行進してきた、
別の行進とぶつかるだけだ。
あらどうもこんにちは。

その「こんにちは」こそ、本来一番恐れるべきものである。
それは、その行進が大きくて長いほど、
どちらも一歩も引き返せない、「こんにちは」なのである。
そこに戦争の火種がバチコンする可能性が一番高いのである。

だから、今まさに戦争状態内乱状態にあるという場合でない以上、
今、自分の立っている、この場所の平和を脅かすものがあっても、
勇気を出してそこに静かに立ち止まったまま、
先に書いた「長くなる話」を、沢山聞いたり、沢山言ったり、しなきゃならない。

しかし、1つの言葉は強いけど、10の言葉は弱い。
1つの言葉に反論するには、10も20も答えなけりゃならない。
それでも場合によっちゃ、10の言葉に、1で返される。

私は高校短大の頃に、色んな社会運動や社会運動っぽいもんに、
片っ端から首を突っ込んでみた事がある。
政治、経済、平和、国際、あらゆる差別に、草の根運動。
いやそんなもの持ち出さずとも、小学校の学級会を思い起こせば事足りる。
「◎◎は◎◎だから、◎◎は◎◎として正しいが、◎◎の場合は◎◎とすべきと思う。」
「でも△△はいけないと思います!」「それじゃ△△が可哀想です!」
あの、お話にならない感じ。

それは悲しいかな「戦争反対!」にも通じてしまう。
「原発反対!」も「差別反対!」も、ときに議論をさまたげる。

でもそれが人を惹き付けるのは事実で。
芸術・文化の世界は、それでいいと思う。いや、それがいいと思う。
人は単純なもので、心は純粋なもので、それこそが人を動かす。
反対なもんは、反対だ。私も戦争には、猛反対だ。
そうしたことは、国内外の人々に強く広く、訴えかけるべきものと思う。

でもその結果、誰かの足を動かしどこかの行進に並ばせてしまうのは、いけないと思う。
それはあくまでも、国や政治を超えて、それとは無関係に、おこなわれねばならない。
そうでないと意味がない。そうでないと危険である。そうでこそ力を発揮する。
しかし号令をかければふいに歩き出してしまうのも、人の性。

だからそこは、「止まれ!」と言わねばならないと思う。
でもどこに行こうと迷っている人に「止まれ!」と言っても、
「いや止まってるし」と言われるだけだし。

それでも「立ち止まって、あれも見ろこれも見ろ」と言うには、1つの言葉じゃ済まないし。
10も100も物を言わねばならないし。そんな時間も暇も、誰にもなかなかないし。

そう、日本人は皆、忙しい。

道を歩きゃぶつかられ、駅を歩きゃ突き飛ばされ、
しょうがなく立っていりゃ犬に小便引っ掛けられるような私などは、
これにもまた、追いついていけない。

朝・昼・晩と飯を食い、夜には眠って朝には起きる、
それだけでもう目が回って倒れてしまうほどの、愚鈍さだ。

だからきっと、こんなことをウダウダと考えているうちに、
あれよあれよと、物事は進んでいくんだろうと思う。

縦、横、奥行き。
その3つの直線が互いに直角に交わるのが、3次元空間。
その3つの直線に対して更に直角に交わる直線が、4次元空間に伸びる線。
3次元空間に居る以上は見えないが、理論上存在する4次元方向へ伸びる空間。

地平を真っすぐ進む行進はぐるっと回って衝突するが、
この世は2次元ではないし、4次元だって5次元だってある。

私なんぞ全く追いつけぬ速さで生活する日本人は、
行進なんかせずともこれまでは見えていなかった新たな方向を見つけ出し、
そっちにぐんぐん、進んでいくのではないかと思う。
立ち止まれとか言ってる間に置いてきぼりにされてしまうんじゃないかと思う。
いやそうあって欲しいと思う。

今はそういう地点に、立っているのだと思う。
このまま前に後ろに右に左に歩むより、別方向を探るとき。
これまでは歩んでこなかった方向に、伸びる道を探るとき。

だから、厄介なことだけど立ち止まったまま、
1の分かりやすい言葉を言う人より、10の分かりにくい言葉を言う人の話を聞き、
10の分かりにくい言葉を、更に10人分も20人分も聞き続け、
10も20も考えて、1の具体的意見より、10の具体的意見が言えるよう、
精進するしかないのだなあと思う。

なんせこれまでにない新しい直角線を引かなくてはいけないのだから簡単じゃない。
3本の直角線に交わる、4本目の直角線。
ちょっと想像してみると頭が爆発しそうになるが、
逃げずに想像力を鍛えていけば、やがて見えてくる方向。
4次元空間からは3次元空間が俯瞰出来るし、4次元空間は3次元空間の表も裏も超越する。

それは、フラットな姿勢で国際情勢を余すこと無く見つめていくと見えてくるもの。
そこに、ここでのこれまでの考え方ややり方は通用しない。

「戦争」の反対は「平和」だけど、それは別に位置的に、反対側にあるわけじゃなし。
「戦争」からキャーと思い切り逃げた先に「平和」があるじゃなし。
地球は丸いしグルグル回るし右往左往には意味がない。

一個一個の物事について、逐一逐一チェックし考え、
一個一個の物事について、逐一逐一答えを出す。
その繰り返しが大切と思う。

その細かい10の答えは、大きな1の言葉にバッサリを切られやすいし。
細かい10のうち1しか伝わらずに、バッサリ切られやすいし。
とても厄介なことだけど、そうするしかないのだし。

そんな当たり前のことを、ウダウダと考える。

多分、こんなことは、誰もが既に、知っている。
わざわざ言うまでもなく知っていて、そのように行動をしている。

そうなんだ。そうなんだよ。

何でこんなことをこんなにも長々と書いたのか、わからん。
何を考えても、私はそう思ってしまうし。実際、そうなんだと思う。

ああまた、取り残されている。

そうこうしているうちに時間は過ぎて、あらゆることに遅刻する人生。
そういうしているうちに皆、ちゃっちゃと居なくなっちゃってる人生。

いっつもそうなんだ。

私ゃ今いったいどの次元に取り残されているのやら。

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