団長日記

都内劇場に暗躍する喜劇団「げんこつ団」団長の日記

間に合っている。

そこの信号はなかなか青に変わらないので、
「神様が云々」とデカデカと書かれたチラシを差し出してきた女性に対し、
「やんわりとチラシを受け取ることをお断りする」ことで、
その時間をつぶしてみた。

「大丈夫ですよ」「必要ないので」「興味ないので」「いいですから」
こちらが笑顔で対応しているのもあってか、上記の言葉ではまったく引き下がらない。
しかし、「間に合ってるので」と言ってみたら、ちょっとだけ顔色が変わった。

なので、もっといい笑顔をつくって、
「ええ、ごめんなさい。間 に 合 っ て い る ん で す よ」と、断言してみた。

そしたらその女性、急に態度を変えて、
「…あっ、そうなんですか」と、さっさと去っていってしまった。
しかも、「(…あっ、なんかこいつヤバい!)」的な微妙な顔して。
まだ信号変わらないのに。

あれはあれだな。
そのヤバい新興宗教よりも更にヤバい新興宗教にハマっていると思われたのかな。

それなら光栄。

それともあれかな。
ハタから見たら支離滅裂でヤバい新興宗教でも信者からしてみれば良い宗教なわけで、
それでもやっぱり、それ以外の新興宗教的なものは、その人達からしてみても、ヤバいのかな。

それはなんか複雑。


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そもそも

例えば、どっかに神殿かなんかがあって。

「この石どう?ありがたい石だよ」
と、そこの礼拝者たちにそこら辺の石を配り売り始めたおっちゃんが居て。

「ちょっとやめろ、俺たちの話のありがたみが薄れる」
と怒る、言葉で教えを伝えたりなんだりを生業とする男たちが居て。

「お、その石、欲しい欲しい!」
と、 群がった者たちが居たら。

「もー、あれ禁止にしてくれよ!」
と 、司祭かなんかに詰めよる男も更に多くなり。

そもそもは、そんな風に生まれたんじゃないかと思う。
「偶像崇拝の禁止」の、"そもそも"の、"概念"。 

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LとかGとかBとかTとかH。の補足。

なんだかタイムリーだから補足しちゃえ。

前記事「LとかGとかBとかTとかH。」
http://genkotsu-danchou.blog.jp/archives/24253187.html


要するに、例えば同性愛者であれば、
「私は同性しか愛せない。だからその権利を認めろ」ではなく、
「私は同性を愛する。だからその権利を認めろ」というスタンスが、
もっと当たり前になっていいんじゃないかと思うわけだ。

「…しか出来ない」という言葉は、なんとなく出来損ないを思わせる。
問題や原因あっての事、改善すべき事、改善できる事、という印象をどうしても与える。

或いは、「…しか出来ない」のを、そうではない人達に、
理解してもらう、認めてもらう、という、下からお願いする形になりやすい。

しかし実際のところは、性別はグラデーション、性愛もグラデーション。
生き物として、性別も性愛もそう精密に分断などされていないのが事実。

「私は生まれつき…」とか「私はキッカケがあって…」とか個々の色々は置いといて。
「私は絶対に…者にはなれない」とか個々の色々は置いといて。
嫌だろうが何だろうが、広く大きな事実として。どうあれ全ては陸続き。
だからどんな場合であれ、「…しか出来ない」とネガティブな言葉を使う必要はない。

つまりLGBTHのどれであろうと、人はそれを自ら選んでいるのだから、
その時々、その自覚と責任を持って、自由であればいいと思うわけで。
その時々、その自覚と責任をもって、自由を得ようとしていくわけであって。
誰に文句を言われるものでも、誰かに理解していただき認めていただくものでもない。

凄いシンプル。

そうして、例えば異性愛者で、
そういうことに無自覚な人や嫌悪感を持つ人に対しても、
まったく同じように、捉えてあげると良い。

「あなたは異性しか愛せない人」ではなく、
「あなたは自ら選んで異性を愛する人ですね」と。
そうして、同じ土俵に立たせてしまえばいいじゃないかと。
勿論、「そ れ は ど う に で も 変 わ り 得 る も の だ」という、前提のもとに。

反発されても、事実ですからと、涼しい顔をしていれば良い。
そうしていられる土壌は、そろそろすでに出来ている気がするし、
そうしていかないといつまでも、同じ道をぐるぐるしそうな気もする。
すると、「人類皆、LGBTH。さああなたはどう生きるか。」となる。

凄くシンプル。

LGBT対Hとか、L対G対B対T対Hとか、もういいだろうと思う。
LもGもBもTもHも、全部揃って、それを認めぬ、例えばHに対しては、
そうやって、同じ土俵に立たせてやればいい。
受け入れて欲しい、受け入れろ、ではなく、
そうやって、受け入れてあげればいい。
嫌がられようが何だろうが、「お ん な じ」と括ってやればいい。

で。「…え?そういうもの?」とふと思い始めるまで、
当たり前に普通に、そういうものとして括ってやって初めて、
そういった人も自分の足で立ち、考えるようになれる、…かもしれない。

確かに、それで問題が解決するかといえば、もにゃもにゃ。
ただ、その方が面白い。
面白いし、健全だ。

……と。
たまたま渋谷のニュースがあってそんな事を思ったわけだが、
何の問題であっても、つまりは、そこんところだと思う。

例えば「私はこう!」と断言するとき、
本当に個々として自分の足でしっかり立ってそう断言しているのか、
というところが、何より大事と思う。

何を断言しているか、よりも、本当に自分の意見か、というところ。
むしろそっちの方が、大事と思う。
意見なんか、変わり得る。

何の問題であっても、同じ。
どの立場も、どの視点も、どの意見も、大きく括ればぐるりと陸続き。

そのなかで、自分の立場を自覚し、自分の視点で見て、どう思うのか。
そして、それを自ら選んだ、という意識が、大事と思う。

人の意見に流され、感化され、
或いはなんとなくそれが当たり前だからと思って。とか。
ある事について正しいと思うことを言っていた人の意見だから、
これについても正しいに違いない。とか。

例えばそうやって多かれ少なかれ無意識に人に寄りかかっていると、
いつしか本当に、足元をすくわれる。

自分の足で立っていないと、どうしても利用されやすい。

世の流れが、大きな川になりやすい時代。
大きな流れに無縁の小川は少なくなり、ぼやぼやしてるといつの間にか流される。
川底に足をしっかりとつけていないと、いつの間にか知らんところまで行ってしまう。

その危機感は、年々強まっている。


…ってなことは、そういや前にも書いてた。今、思い出した。

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