団長日記

都内劇場に暗躍する喜劇団「げんこつ団」団長の日記

ふと思い出した最初。

両親は出会った頃からダンサーであり今もダンスを教えているが、
私が産まれることとなって、母は一旦ダンスをやめた。
私をある程度まで育ててくれている間にも、やめていた。
私はしばらく、母も踊るとは、知らないままだった。

その頃、父は昼も夜中も仕事をしていた。平日は全く顔を合わせることがなかった。
それでも日曜日は朝から晩まで家族で過ごした。必ずどこかに出歩いた。

母はダンスをやめ、四六時中クソガキの私と居て、
時々は鬱々としたり苛々したりもしただろう。
癇癪を起こすようなことはなかったが、明らかに塞ぐようなことが、時々はあった。

そうなると、取りつく島がない。
ちょっとやそっとの事では笑わないし、笑えなかったろう。
その状態は、強固だったと思う。けっこう鉄壁だったと思う。
そうなると、私はどうしていいか分からない。一緒に塞ぐか癇癪を起こしたかと思う。
でも日曜日は違った。

家族で過ごす日曜日。そんな時にも時々は、母が取りつく島のない状態となった。
平日だろうが日曜だろうが関係なかった。特に理由なしにそれは訪れた。
しかし日曜日のそんな時には、理屈も何もない、脈絡も何もない、
わけのわからない事が、突然起きるのだ。
わけのわからないことを、父が突然、起こすのだ。
それは、気づかれようが気づかれまいが、或いはしつこく目の前で、繰り広げられる。
わけのわからないことが、起き続ける。
すると、母は思わず、笑うのだ。予期せず起き続ける、わけのわからない事によって。

塞いだ母は、普通の楽しさや巧い冗談などでは、決して心動かない。
テレビのコント等は勿論、いくら楽しさを演出しようが、いくら面白い話をしようが、
まったくもって、心動かない。
笑わせようとすると、かえってテコでも動かない。

理屈があっては駄目なのだ。脈絡があっては駄目なのだ。思いがあっては駄目なのだ。
そういうものが、ちょっとでもあったら駄目なのだ。
ふいに起きる、思いも寄らないこと。
延々と繰り返される、まったくもって意味のないこと。
思考を通さずに、笑うというスイッチがふいに押されるのは、そういうものなのだと、
私は日曜日の度に、繰り返し覚えていった。

まず本当に、意味がない。意味がないのに、無駄もない。
ダンサーならではなのかもしれない。全身を無駄なく使った機敏で美しい動き。
繊細で鋭い動きの切り替え。繊細で豊かな表情と呼吸。
それは別に、面白おかしい動きではない。滑稽な動きでもない。
ときどき出てくる意味の無い言葉は、ダンサー云々関係ないだろう。
しかしそれも別に、面白おかしい言葉でもない。ただその場において意味がないだけだ。
若い父のそれは、とてもキレがあって巧みだった。

幼少の頃の私はそれを覚えようとした。
ダンサーには育たなかったので動きにそれ程キレはない。
でも、脈絡のなさや意味のなさ、それを起こすタイミングと呼吸、それを覚えようとした。
そして父のいない平日には、自分が母の心を動かそうとした。

それが多分、私が人を笑わせようとした最初であり、
それが今も頭のどこかに深くこびりついている。

その頃は、父と、テレビでみた古い無声喜劇映画を、真似た。
その後、色々と他のものに興味を抱きつつも、
常に古い無声喜劇映画への強い興味は抱き続け、観まくった。
そしてやがてキートンの作品に出会って、
私はこういうものをやろう、私はこういう風に生きよう、と思った。
(いや、キートンの生涯に習おうというのではなく、
キートンの作品の中に生きているように生きようと、思った。)

当然のことながらそれまでにも色々あって、他の色々な事を経て、そう思った。
それについて書き出すと、また長くなるからやめておこ。

とりあえず、私が育ち妹が育って、ようやく母も再び踊り始めた。
そして今も父と母で、踊り続けている。



今朝みた夢。

朝起きて、珍しく夢をちゃんと覚えていたし、
夜になっても、珍しく忘れてしまっていなかったので、
ちょっとメモがてら、内容を書いておこうと思う。
以下、夢。

沢山のスタジオや稽古場のあるビルの中で迷い、自分の稽古場に戻れずうろうろしていた。
ドアが並ぶばかりで窓もなく中の様子が見えないので、違うドアを開けてしまうのも怖い。
ドアに耳を傾けてみても防音が効いているらしく音が一切漏れてこない。
だからとりあえずうろうろしていた。しばらくうろうろしていた。

もしや階が違うのかと、思ったかどうだかは忘れたが、とりあえず階段を上った。
階段を登ったら、ふいに、屋根のないデッカい稽古場に出た。
まったく屋根がない。壁も、自分の背にしている側にしかない。
少し灰色がかった青空に、金色の陽の光りが反射した雲が浮かんでいて、
遠くからは歌声が聞こえてきた。
そのだだっ広い空の下では、オペラのリハがおこなわれているらしかった。
遠くに、大人数で歌う、いかにもオペラらしい衣装の人達が見える。

なんかすごい。すごい風景だと思った瞬間に地面が揺れた。
地震だと思い、とりあえず走った。
走ったら何故だかすんなり自分の稽古場に戻れた。
急いで大事な荷物を手に持ち、皆に逃げるように言った瞬間、
稽古場の屋根が丸ごと吹っ飛んだ。
一気に部屋が光った。
見上げると金色の雲が見えたし、部屋にその雲が流れ込んでくるし、
上からはさっきの歌声が聞こえた。

なんかすごい。すごい状態だし、上の人達まだ歌ってるしすごい、と思いながら、
とりあえず上からものが落ちてくるようなことはなさそうだし揺れもおさまってきたので、
慌てて、その場で待機!と叫んだ。
そしたら目が覚めた。

以上、夢。
夢診断だとか夢占いにはまったく興味がない。
ただ、なんか面白かった。

大抵見るのは変な夢だ。
また覚えてたら書いとこ。


つまらないし長い雑記。

例えば、何らかの問題の存在をアピールする事や自らの存在をアピールする事は大切だと思う。ただ、ある種の大きな問題に対しては、賛成であることや反対であることを声高に叫ぶことや、賛成者と反対者が(深い議論をするのではなく)ただただ衝突することは、その問題の改善にまったく繋がらないどころか、解決を遠ざける。

問題の"核"にあるものは、問題に対する意見が別れるほど、安全な場所に置かれる。本来見つめ直さなければいけないものや改善しなければならないものは、それに対する意見が対立するほど、攻撃される危険性が少なくなる。
更に、賛成意見も反対意見も、その向いている方向や見ているものが明確で単純になり易いので、それは操り易いものともなる。またどちらにも勢力が産まれるので、その中での新たな発見や発想は見過ごされるか抹殺され易くもなる。相反する意見同士がただ意見を主張しあい衝突することには、どう考えても、良い面がない。

何かに対して何らかの問題提議があった場合や何らかの不安のある場合、理想としては、賛成と反対に別れずに出来るだけ多くの人を取込んで、事実に近づき問題の改善点を探るしかないかと思う。
ただ多くの人を取込むには分かり易い先導力が必要でもあり、多くの人が取込まれればその中でもまた自然と、色々な面での賛成反対のグループが生まれるとも思う。それは良い切磋琢磨を産む場合もあるかもしれないが、どこかで必ず衝突する。大きくも小さくもその法則は変わらない。

その問題が多くの人に関係する大きいものであるほど、或いは問題の根が深いものであるほど、その統制を取ろうとするのは難しい。誰かが意図的に取れるものではない。誰かに操られることなら出来るかもしれないが、それを操ることが出来るものにはそれを操る目的があって、その目的は問題提議するものと同じではない場合が多い。多くの人が望まぬ方向に行くことも多いと思う。

当然のことながら、問題が多くの人に関係するものであるほど、多くの人の意見を反映するのは難しい。だからこそ、意見のアピール、意思のアピールは、とても必要で重要だと思う。それが大きくなり、無視の出来ないものとなることで、改善を余儀なくされることも多いと思う。
ただ、それだけでは解決や改善の難しい問題がある。アピールすべきことや意見すべきことが複雑なものもある。

そういう場合、アピール合戦ばかりでは無意味なので、その先を行けたらいいと思う。それを可能にするのは、うねりだと思う。人のうねり。考えや思いのうねり。誰か特定の人間や団体や思想に任せてはいけない。そこに束ねられてはいけない。それは誰にも任せられるものではないし、束ねられたら最後、どこかよくわからない所に連れて行かれる。

個々が何らかの解決や改善を望む。それはそれぞれ完全には合致しない。ときには真っ向から相反する場合もある。しかしそのそれぞれが対象としている問題の、核、それは誰にとっても同じである。
それを変えねば変わらない問題に対しては、それを見失ったり、それを見誤ることを、何より一番に気をつけるべきと思う。
意見の分かれたその相手に、立ち向かっては良くない。どちらも見つめる先は同じでなければ、そのアピールや行動は何の意味もない。別に手に手を取り合う必要はないが、向かう先を誤ってはいけないと思う。

それを可能にするには、うねりをそちらに向かわせるしかない。誰も向かわせてくれないし、むしろ向かわせまいとする力の働く可能性の方が高い。或いは混乱しながら誰の意思でも目的でもない、どこかよくわからない場所に流れていってしまうこともある。
うねりは、個々の意識がぶつかりあい、意味のないいがみ合いや馴れ合いを経ながら、揉み合いへし合いしながら進む。大きくも小さくも無意味な衝突は絶対になくならないし、どうでもいいくだらないことは常に起き続ける。理路整然と理想的に問題の核に突き進んでくれることは無い。

そうしたどうしようもない、うねりの性質を、忌み嫌わずに、常にどこにでも有るものとして受け入れることが、何より大切と思う。それが、無秩序であり理不尽であり不条理であることを受け入れて、その中でもがくしかない。
無秩序を攻撃しようとすれば、自分と違う意見を攻撃してしまうだろうし、理不尽なことを排除しようとすれば、何らかの派の中に閉じこもるしかなくなるし、不条理であることを嘆けば、その先に一歩も進めなくなる。
例えば、物事を正そう、物事を良い方向に向かわせよう、という本能的な欲求を満たそうとするその半径を、出来るだけ広く持つべきだとも言えると思う。

無秩序であることは受け入れて、それに立ち向かうのではなく、無秩序の中で自分の進むべき方向を考えて、それぞれがすべきことをする。行動をしていく。そうして個々が濁流の中で、見つめるべき先に向かってしっかりともがき続けることで、それはやっと良いうねりとなって、解決や改善に、少しは近づいていくと思う。
個々は一時的には間違ってもいいと思う。流れは大きい。それほど影響はない。間違いや試行錯誤が許されることがまた、正しい方向への模索を許すと思う。
すでに有るうねりは、解決にも改善にも進んでいない。どこかのうねりに身を任せるのは、意味がない。まず個々であることが大切だと思う。常に個々として無秩序な濁流に対面していることが大切と思う。

どう考え、どう行動するのであれ、あくまでも根は個々であるように、意識すべきと思う。
自分の意志でどこかに属するとしても、根は個々であることを、忘れてはいけないと思う。
あくまでも個々として、自分に責任を持って、考え、行動していくと良いと思う。
あくまでも個々として、試行錯誤と模索を、していくと良いと思う。

個々は大きな流れの中でもがくことしか出来ないのだから、どうせなら見つめるべき方向を見誤らないように、もがけばいいと思う。自分がもがくことをサボったらその分だけツケはくる。

ただ、もがく必要はあれど、別にもがき苦しむ必要はないと思う。それぞれの方法で、もがき楽しめばいいと思う。苦しみたければ苦しめばいいし、楽しみたければ楽しめばいい。それは自由だと思う。

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