団長日記

都内劇場に暗躍する喜劇団「げんこつ団」団長の日記

ある署名から思った事や多様性についてや、結局、今後について等。

そう言えば文化庁の継続支援補助金についての、それを必要とする内容の、署名。
支援が助かる身としては、是非署名をしたかったのですが、ここに「申請方法をもっと簡単に」という趣旨の項目があり。はたと手が止まりまして。残念ながら署名することが出来ませんでした。そこから思ったことを、ざっと。

まずはあくまでも個人的な所として。自分の場合、給付も補助も、比較的すんなりいきましたし(たまたまな所もあるかもしれませんが)。申請に必要な手続きについても、必要なものと感じられましたし(もちろん諸々と面倒はありましたが)。
そこで必要とされたものが、過去から地道に続けてきた活動についての申告であったり、具体的な活動資金の申告にあった所にも、かなり助けられましたし。それら無しには悪意ある不正申請の入り込んでくる可能性があるでしょうし。或いは、そうした申請方法が甘くなるほど、やがては支給額全体の減額に、もしくは対象の制限に、繋がる可能性がある気がしてしまって。

例えばもしも、この度のその対象が、活動規模や活動内容によって、大雑把に制限されるものであったら。更に言えば、それに伴う知名度によって。更に言えば、それに伴う人脈によって。ざっくりと左右され、バッサリと切り捨てられるものであったら。…と。そんな図式が即、頭に浮かんでしまうのは、単なる自分の悪い癖としても。自分の場合には、自力による小規模活動を継続していく上で、緊急に、取り急ぎ、設置された支援としては、特に不満はなかったのです。
 
この実現に向けて動いて下さった方々々々には、感謝してもしきれません。本当に有難うございます。自分に出来ることがあれば、積極的に何でもしたく思っています。もちろん、微力ながらの署名等も。
支援に対する不満の無さは、あくまでも「今のところ」であります。今後の情勢についてはもちろん不安があります。今後の情勢のなかでの活動には、考えるべきことが多々有ります。
突然、世界中の何もかもが、元どおりになるようなことがなければ、今後が大変だと思います。

まあ自分の場合、もしも突然、世界中の何もかもが元通りなったとしても、動員には常に不安がありますが。それは変わりませんが。自分の事はさて置いて。
文化活動は、どんな情勢であれ、続いていかなくてはいけないものと思います。それが「有る」ためには「続いて」いなければなりません。文化は何もない所から、突然生まれたりしませんし。文化のない世界は死んだ世界ですし。あらゆるものが死に絶えた世界ですし。
 
しかし、「何が」文化であるかを決めるものが居ては、いけないと思うのです。「お前は生きろ」「お前は死ね」と言うものはあっては、いけないと思います。そんなものがあっては、結局、全部が死に絶えます。
なので。諸々の活動が。多種多様の活動が。それぞれに続けていけるように。活動内容や活動規模によって、それが左右されてはいけないと思うのです。
知る人ぞ知る、知らない人は全然知らない、知らなくても全然困らない、そんな自分自身の、小規模演劇を守るためではなく。小劇場演劇の多様性に魅せられ、活動を開始した身として、そう思うのです。
だって多様性こそが、宝ですので。その土壌にこそ、芽吹くものがあり、花開くものがあるので。

なので、この情勢に伴って発生する、現実的で具体的な、細かな問題に対しての支援に絞った形は、悪くないと思います。そのためにはやはり、ある程度の、面倒な手続きは必要と思います。
もちろん、「無駄に難しく」「無駄にややこしく」されては困ります。もちろん、「大雑把な判断」による、雑な不交付も、言語道断です。ただ、面倒で細かな申告や手続きが必要ない代わりに、やはり「大雑把な判断」でざっくりと、活動を切り捨てるような形にならないことを、望んでおります。願っております。祈っております。

情勢が変わっていけば、支援は必要なくなります。本来、必要ないのです。変わりゆく情勢に沿って、具体的現実的に必要ないとなったものは、必要ないと判断されて当然です。むしろ万々歳です。これまで自力で活動してきました。そう出来る情勢となれば、今後もそうしていくのです。
さあ、今後の情勢がどうなっていくのか。まさに緊急事態だった昨年を経て、今後、何が、何を、どう判断するのか。どう判断されていくのか。
 
しかし物事は、情勢の変化に沿って順当に緩やかに変わるより、結局はやはり大雑把に、単純化、効率化、されていくものです。そういうものです。申請する側の面倒は、申請を受ける側の面倒でもあり。結局のところ、ある程度の切り捨てはあるかもしれません。あると思います。あるのか。
つまり結局、そんなこんなも織り込み済みで、活動していかなければいけないなと。…あ。ここまで書いて、そう思いました。ああ。そうなのです。

つまり、どんな情勢であれ、自分に出来る事を、忍耐強く続けたり、新しく見つけたり考えたり。何だり何だりしながら。これまで通り、やっていくしかありません。
それ。これを読んで、「こんな奴を支援なんて、とんだ無駄だ」と思われる方が、いらっしゃるかもしれない。「お前は死ね」と。そう言えば、言われ慣れている気もする。
いや。それは卑屈過ぎる気もする。いや。卑屈過ぎない気もする。どうでしょう。わかりません。

ともあれ。そんなこんなも含めて、今、自分の抱えるあらゆることは、全て過去からの積み重ね。良いことも悪いことも、全てが自業自得。善因善果。悪因悪果。今の情勢に対しても、これからの情勢に対しても、それらをもって新しく、前に進むしかありません。進める形で、進むしかありません。

何せ何やら、自分にとって新しい気持ちや概念が、この情勢のお陰でふつふつと、芽生えている昨今です。
はい。お陰様なのです。「ちくしょう」だけど、「ありがとう」。
世の中がどうあれ。今後がどうあれ。やっていくしかありません。

次回のげんこつはなんと、人が主役!

これまでのげんこつ団は、「物事や現象」つまり「社会」を主役に、
「人や人生」がそれに、翻弄されたり順応したりする、という内容が多く。
要は、主に「物事や現象」をネタにしてきたわけですが。

それは、そうしたものは他にあまりないだろうと思っての自分なりの色であり、
また、そちらの方が自分の得意であると思ってのことでしたが。

次回のげんこつはなんと、「人と人生」を主役に、
「物事や現象」がそれに立ちはだかったり影響されたりする予定。
要は、「人や人生」を、ネタにする。

それはつまり、今、そっちをネタにしたくて仕方ないという事で。
いよいよ、攻撃対象を変えるという事で。
ようやく、照準がそちらに向いたという事で。

しかしするってえと、結構、考え方や書き方なんかを変える必要があり。
普通に人を描いちゃったんじゃ、意味がないので。
そんなん自分がやってみたところで、ただそのまま普通になるか、
駄作も駄作になるのは目に見えているので。

あくまで「人」も「人生」も、「ネタ」にしなければいけない。
またもちろん、それに立ちはだかったり影響されたりする「物事や現象」も、
「ネタ」として機能しなければいけない。
「両立」させていかねばならない。

ということで、只今、思考回路を回したり戻したり、健闘中。

だから、自分にプレッシャーをかけるべく、自分のためのメモとして、
わざわざこうして、宣言しておく。

「次回のげんこつはなんと、人が主役!」

…まあこれまでのも、
「物事や現象」ネタによって「人」が右往左往をしている様をやっていたので、
「人が主役」ではあるのだけれども。

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苦手

例えば子供が「コドモ」っていう動物の一種で、いつまでも小さく弱いままなんだったら分かるんだけど、実際は単なる「過程」でしかないのだから、子供を子供扱いするのも気が引けるし、自分が子供扱いされるのにも戸惑ったもんだ。

思い出してみれば誰でもそうだったんじゃないか。例えば変な見ぶりと声で「ありゃりゃりゃ!んまー、おーきくなりまちたね〜!」とか言われても。「空気を読んで」子供らしく振る舞うしかないじゃないか。それが出来ない私は下を向くしかなかったじゃないか。空気を読める子は「相手を思いやって」子供らしくしてあげていたじゃないか。その「優しさと気遣い」はもう充分大人のそれじゃないか。

言葉が、ほんの少しでも話せるようになったら、色々な面での知識や経験が足りない以外は大人同様に育ちつつあるもので。しっかりと思い出してみれば、誰でもそうだったと思う。いわゆる「子供らしい」振る舞いも言動も、「分かってやってた」と思う。道端で泣きながら暴れてる子供も充分、「分かって」やってる。親が無視して立ち去ればピタッと泣き止みスタスタ歩いていくもんだ。ズルい事もワルい事もエロい事も色んな事を逐一考え、試行錯誤して行動するのが子供だ。
 
だから「子供扱い」 ってのは、子供扱いをする大人の世界における、「大人と子供の関係性」を、否応無しに押しつけ叩き込む行為で。その人の思う「子供らしさ」を演じざるを得ない、逃げ場のない状況を作り出す行為で。そう思うと益々、その人の思う子供らしい子供でいてあげる「優しさと気遣い」を、敢えて拒絶したくなったもので。

自然とその「優しさと気遣い」を身につけた子供は、自然と子供らしく振る舞う事が出来、それが相手との関係を潤滑にし、結果、それは自分にも心地よいものとなる。
無理をしてその「優しさと気遣い」を演じた子供は、無理に子供らしさを演じ続け、相手との関係は潤滑になるものの、結果、それは苦痛のままだ。
そう、拒絶するより無理をするより、順応しちゃった方が、お得だし楽なのよ。さあ、順応なさい、私も順応してきたのよ、そうしたら楽しいのよ、考える必要なんかないのよ。そう、そういうものなの、そういう世界なの。さあ泣きなさい喚きなさい、子供らしく屈託なく、笑いなさい。

しかし、そんなこと言われても、子供はすぐに成長するもんで。いやすでに中身は、ほぼ同等。子供扱いをした子供は、みるみるうちに貴方を追い越していく。いやすでに中身は、追い抜かれているかもしれない。貴方同様、誰しも同様、子供だって、実のところは何を考えてるか計り知れない。しかも良くも悪くも文字通り、無限の可能性を秘めている。ああこわい。だから私は、子供が苦手だ。子供の頃から子供が苦手だ。つうか子供も大人も苦手だ。みんな苦手だ。

ああだから、「大人」は「子供」を「子供扱い」することで、自分がちゃんと「大人」であることを自らも自覚しようとし、「子供」を「子供」に、しておこうとするのだな。その「抑圧と服従の関係性」が、自らにも必要なのだな。と、ここまで書いて。「いやいや別に違うだろうw」とも思う。実際、違うんだろう。単に子供は可愛い、愛おしい、そういうのがあるんだろう。大人にももっと余裕があるんだろう。そうなんだろう。そうなんだろうよ。

つまり私も大人であるならば、余裕をもって子供を子供扱いすればいいし、その余裕がないならば子供を子供扱いすることで屈服させればいい。子供側にはいろいろあるだろうが、そんなことは知ったものか。みんなそうしてるんだ、そうしろ。それで万事解決だ。

或いは子供をもうちょっと「大人扱い」するような世間だったら楽なのにと、ちょっと思うけど致し方ない。他国他文化じゃそういうところもあるが、今のここはそうじゃないわけだし。いやまず「大人扱い」ってのもおかしな話で。「大人扱い」って何だよって話で。「普通に」接してくれれば良かったし、「普通に」接することが「普通」なら良いのにと、思う。

だって思い出してみたらいい。誰しも子供のころに感じたろう、あの違和感。物心ついて最初に他人の大人が見せた、「子供扱い」。他の大人たちに対するものと明らかに違う、態度、表情、言動。いやいや絶対、感じたと思うよ。でもすぐに、「あっ、こういうもの…了解!」と飲み込みの早い子供は事情を察したんだ。でも私のような飲み込みの遅い子供は、「なにこれ…?」といつまでもその違和感を引きずったんだ。
 
結局のところ、子供の頃に「その事情」を飲み込めず、大人になってもまだ飲み込めない、自分がいけない。いつまで口の中で咀嚼してるんだと。早く飲み込んじまいなと。それか吐き出しちまいなと。つまり子供が苦手で、子供と接するのが苦手なのは、完全なる自業自得。社会のせいでも世間のせいでもなんでもない。なんであってもそうなんだ。きっと私は死ぬまで、飲み込むでもなく吐き出すでもなく「事情」をモグモグ咀嚼し続けるんだ。

なので今後、子供と接しなくてはならない時、その時には、一対一のサシで勝負させてもらいたい。大人だの子供だの一切、抜きにして。……いや、負けるな。絶対に負ける。いやすでに負けてる。白旗。降参。ごめんなさい。
だからやっぱり、子供は苦手だ勘弁だ。
つまり、逃げろ!


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